第六話 A Harlem Day's Knight
「啓ちゃん啓ちゃん」
その日は聞き慣れた幼馴染みの声で目を覚ました。
「んぁっ……?」
寝惚け眼で声の主を見る。美里だ。
「ん……お早う……ぅんー何だぁ?」
「あのね、陽ちゃんが風邪ひいたって」
「…………陽一が、風邪ぇ?」
俺はゆっくり上体を起こした。
俺は自分の部屋の暦を見た。俺はカレンダーよりも、この暦の方が好きだ。そういうわけで、俺の部屋には暦がある。暦は五月四日を示しているが、今日はまだ暦を捲っていないので、実際には五月五日だ。
GW三日目、こどもの日。
「……親父は?」
「美里が来たときに、どこかに出かけたよ。あ、友達の家に行って来るから、ご飯は適当に作って食べろって」
相変わらず放任主義な親父だ。
俺はCDをかけた。ジミ・ヘンドリックスの『Hey Joe』が流れる。
「……にしても、陽一ってば可哀想なヤツだな、GW三日目に風邪か。平日にひいてりゃぁ、学校も休めたろうに。美里、飯」
「自分で作ってよ。美里はもうご飯食べたし。でも珍しいね、啓ちゃんがこんな時間まで寝てるなんて」
時計を見ると、もうすぐ一時だった。夕べは、昼間に麗ちゃんと遊園地で遊んでいたせいか、なかなか寝付けなかった。気が付いたら、午前四時を回っていたのである。
「ん、まぁそういう日もあるよ。休みの日だしな。ま、冷やかしがてら見舞いでもいってやっかぁ」
空はいい天気だ。雲は少し多いが、真っ白な雲ばかりで、そして太陽は全く隠れていない。季節的に少し早いかも知れないが、今日はアロハシャツを着よう。
俺は納豆とみそ汁で飯を済ませた後、美里と一緒に陽一の元へ向かった。俺の家の正面が美里の家。その向かって左側が陽一の家だ。
チャイムを鳴らすと、横幅のある陽一の母親が出てきた。
「あれ、陽一のお見舞い?ありがとうね、わざわざ」
俺と美里はおばさんに通されて陽一の部屋へ向かった。
「おーう、療養してるかぁ?」
「お……うっす」
陽一はベッドで柔道の本を読みながら寝ていた。が、思ったより元気そうだ。
「陽ちゃん、具合は?」
「ちと熱っぽいけど、それほど悪かねぇよ。明日にゃ治ってら。……うちの看護豚がよ、寝てろってうるせーんだよ」
看護豚というのは陽一の母親のことだ。現在横幅のある陽一の母親が、昔は看護婦だったので、陽一は風邪の時には看護豚と言う。しかしおばさんの看護というのがなかなか手際が良く、流石元看護婦というところだ。小学生の頃、母親のいない俺が風邪を引くと、おばさんが面倒を見てくれたこともある。
「何にしろ、学業に差し支えがなくて良かったな、陽一」
「あーあ、明日も風邪引いてねぇかなぁ……」
その言葉に俺と美里は思わず笑ってしまった。
「大体よ、今日引くぐらいなら明日引きたかったよ。見ろよ、今日はこんなにいい天気なんだぜ?」
陽一が忌々しそうに窓の外を見た。
「本当は今日、お前ら誘って運動公園に行こうと思ってたのによ。キャッチボールでもしに」
俺と陽一が小学校の時に野球部で、中学校へ上がったら今度は美里がソフトボール部に入った。その影響で、俺たちは晴れた休みの日には、よく近くの運動公園へ行ってキャッチボールをしている。高校に入ってからも、四月に二回ほどやっている。その前の春休みなど、十回以上やった。
「昨日も行こうとしたんだけどよ、美里はバスケの練習試合だったみたいだし、啓祐は啓祐でいねぇし……お前、昨日何処に行ってたんだよ?」
「えっ、お、俺?昨日は架橋に……」
昨日麗ちゃんとデーとしたことを思い出して、少しドギマギしてしまった。
「……早紀ちゃんとか?」
「な、何で早紀が出て来るんだよ。一人で行って来た」
「お前ら、よく架橋に行くだろう、楽器とか買いに」
確かにそうだが、
「そういうときは大抵ジョニーだって一緒だよ」
二人で言ったことも何回かある。しかし、二人で行ったなら、バンドに関する話以外はほとんど口喧嘩みたいなものだが。
「しかし、一人とは、まぁ寂しいな、お前も」
「うるさいな、何となく駅まで行ったら架橋に行ってみようって気になったんだよ」
そのお陰で麗ちゃんとデートもできた。
「あ、ねぇ啓ちゃん、これからキャッチボールしない?」
唐突に美里が言った。
「あん?……別にいいけど」
そう答えると、
「おい、俺も連れていけ」
陽一が言い出した。だが俺と美里の答えは、
「駄目」
で一致した。
「何だよ、俺が言い出したのに……あーあ、言わなきゃよかった」
陽一がふてくされた。
「仕方ないだろ、お前風邪引いてんだから。これで悪化したら洒落になんねぇよ」
「……明後日の日曜、晴れたらもう一回行くぞ」
「分かった分かった。だからちゃんと直せよ、風邪」
その後、少し雑談をしてから、俺と美里は撤退した。俺と美里は、予定通りグローブを持って運動公園に向かった。
仏が丘町立運動公園は、俺たちの家から、高校と逆方向へ歩いて五分。今も昔も、俺たちの遊び場である。俺たちが生まれてから十六年、町はどんどん変わっていったが、この運動公園はほとんど変わっていない。変わったところと言えばプールが出来たことくらいだ。その他の施設は、野球場とサッカー場、そしてテニスコートが四コート。サッカー場は陸上競技場とも兼用だ。
田舎町ならではの、余った土地の見事な活用法だ。
俺と美里は、いつものように野球場の東側でキャッチボールを始めた。美里はバットも持ってきている。いつもなら陽一がいるので、三角形にキャッチボールをするが、今日は一対一の普通のキャッチボールだ。ちなみにボールは、中学から硬球を使っている。
少しずつ、二人の距離を広げて行く。美里は実は強肩だ。中学のソフトボール部でもポジションはセンター(兼リリーフ投手)で、小柄な身体で一番広いポジションを守っていた。尚、俺と比較した場合、肩は俺と五分、瞬発力や足の速さ、及びスタミナは全て美里の方が上だ。だが、俺の運動能力が低いわけではない。陽一の場合は、瞬発力と足の速さは美里と同等か若干劣る程度、スタミナと肩は美里以上。
だが、コントロールは俺が一番いい。小学校でもピッチャーだった。そして陽一がキャッチャーというバッテリー。陽一がいれば、俺がピッチャーとなり、陽一か美里のどちらかがバッター、そして余った一人がキャッチャーになる。
だから、当然俺は変化球も使える。カーブとフォークとスライダーだ。スタイダーは中学校から投げ始めた。更に、今は投げ方もオーバースローだけではなくサイドスローでもピッチャーは勤まる。スライダーはサイドスローでも使えるので更に良し。陽一と美里相手に勝率は五分五分くらいだから、俺のピッチャーもそう悪くないと思う。
二人の間隔を広げながらキャッチボールをしていると、やがて思い切り投げないとボールがノーバウンドでは届かない距離になってきた。そうしたらここで五分くらい続け、そして今度は間隔を狭めていき、最後には近距離で速いスピードになる。俺と陽一が野球部でやっていたやり方だ。
「おぉーい、啓祐、美里ぉー」
不意に呼ばれた。声のした方を振り向くと、皮ジャンを着た女子が一人。それは俺たちの良く知っている女子で、ランだった。
ランは着ていた革ジャンを脱ぎ、こっちへ来た。
「よぉ、何してんだ?」
「見ての通り、キャッチボールだ。お前こそ、何してるんだ?」
「天気がいいから、ちょっと……バイクで仏が丘の探険を、な。運動公園って書いてあったから来てみたらよ……お前らがいたんだ」
高校が始まって約一ヶ月経ったとは言え、ランはまだこちらへ来たばかりだ。それに、ランは仏が丘ではなく隣の大倉町に住んでいるらしいから、仏が丘の地理にはまだ詳しくないだろう。
「へぇ、ランちゃんてバイク乗れるんだ」
「ははは……実はまだ無免許だけどな」
「駄目じゃん」
言いながら、ランらしいとも思った。無免許がランらしいのではなく、バイクに乗るのが、ランらしい。革ジャンを着ながらバイクに乗るランを想像してみると、凄く似合っている。
「しっかし、まぁ……健全なこって。キャッチボールねぇ」
「晴れた日曜日は大抵やってるよ。ホントは陽ちゃんもいるんだけど、今日は風邪で欠席」
「何だぁ?陽一、風邪引いたんか。不幸なヤツだな、こんな晴れた日に」
ランはそう言って鼻で笑った。
「……そうだラン、お前バッターやらねぇか?今日は陽一がいねぇから、俺がピッチャー出来ねぇんだ」
ふと、ランなら出来るだろうと提案してみた。ピッチャーの俺としては、キャッチボールだけでは物足りない。
「啓祐がピッチャー?いいね、面白そうじゃねぇか。俺、たまにバッティングセンター行くんだぜ」
やはり乗ってきた。
美里にバットを渡されたランはバッターボックスに入り、俺はマウンドに立った。美里はキャッチャーだ。
「よっしゃぁ、来ぉーい」
ランは一度軽くバットを振ってから、構えた。
俺は振りかぶり、オーバースローで投げた。先ずは真ん中より外角寄り。ランはバットを振るが、空振り。ボールはキャッチャー美里のグローブへ収まった。そして、
「早ぇーよ!」
怒鳴られてしまった。だが俺は、
「はっはっは」
余裕の笑いで返してやった。あの様子だと、どうやらこの俺のことを侮っていたようだ。
「しかもオイ、硬球じゃなかったか?」
「誰も軟球とは一言もいってねぇだろ」
言い返してやると、ランは悔しそうな表情で、
「畜生、次来い、次ィ!」
半分ヤケになって構えた。ランの様子からすると、恐らくバッティングセンターでしか野球経験がないかも知れない。だとすると、変化球を投げない方がいいだろう。全て、オーバースローの直球勝負だ。
「んじゃ、二球目行くぜ」
今度の狙いは内角高め。ランはこれには手を出さず、上体を仰け反らせるだけだった。だが、
「ランちゃん、今のストライクだよ」
美里が告げた。
「嘘ぉ?今の入ってたのか?」
「うん、ギリギリ」
俺はそこまでギリギリに投げるつもりはなかったのだが、少しずれてしまった。
美里から返ってきたボールを受け取ると、
「ラーン、三球三振、行くぞー」
「うるせぇ!やってみろ」
さっきよりも更にヤケになった。
そして三球目。二球目でランの上体が仰け反りったことで、外角が打ちにくくなっている。当然狙いは外角。外角低めだ。
『ズバーン!』
投げたボールは、やはりランのバットには当たらずに美里のグローブへ。俺は予告通り三球三振にしてやった。ランは振ったままの体勢で固まっている。その表情は、前よりも悔しそうだ。
「畜生、おめぇ上手いじゃねぇか……。もっかいだ!」
ランはめげずに構えた。
勿論、俺も投げる。まず一球目は、ど真ん中。ランは一球目は様子を見ようとしていたのか、手を出さなかった。
そして二球目。今度は真ん中より内角寄りを攻めた。だが今度は、
『チッ』
ボールはランのバットを掠り、ワンバウンドして美里のグローブへ入った。いや、美里がよく反応して捕ったという方が正しいか。
「おし、次!」
ランは掠ったことにより少し冷静になってバットを構えた。
ここは少し慎重に行こう。俺はそう思い、第三球目は外角側に外した。但し、スピードは今までと変わりない。ランはボールと見切り、手を出さずに構えたままである。だが、
「……今のはボールだよな」
自分の判断に自信がないのか、ランは美里に訊いた。
「うん、ボール。ツー・ワンだよ」
美里は答え、俺に返球した。
カウント、ツー・ワンからの、第四球目。俺は振りかぶり、投げた。狙いはまたしてもど真ん中。ランもそれに反応し、打とうとバットを振りにいった。だが、今度の球はチェンジアップ。今までのボールとは明らかに遅い。今まで早めに投げていたのに、ここで突然遅い球。ランは調子を崩され、ボールを打てたものの、ピッチャーゴロだった。
「何だよー、最後のはぁ……」
忌々しそうにマウンドの俺を見ている。素人から見ても、この勝負は俺の勝ちだ。
「あーぁ、俺の負けか……。美里、やるか?俺がキャッチャーやっから」
ランは美里にバットを渡したが、
「うん。でも、ファールボールとか危ないから、キャッチャーやらない方がいいよ。それに硬球だし、啓ちゃん変化球も投げるし」
ということで、ランはホームベース位置の後ろのフェンスに寄りかかって立っている。美里が空振りしたときに、そこでランが捕ってくれるそうだ。
今度は美里が相手なので、変化球もサイドスローも使う。ランが後ろにいることはいるが、なるだけボール球は投げないようにしよう。
第一球目。サイドスローで直球を、真ん中高めコースに投げた。美里はそれを打ちにいったが、
『キンッ!』
打ったボールはサードフライ。俺はマウンドからサードへ走り、慎重に落ちてくるボールを捕った。
その時、ランのいるフェンスの向こうに、またしても見覚えのある女子が、今度は二人見えた。
一人は、俺の天敵・早紀。そしてもう一人は、昨日俺と遊園地に行った麗ちゃんだった。この二人が何故ここにいるのだろうか?
早紀と麗ちゃんは野球場に降りてきた。
「早紀ちゃん、麗ちゃん。どうしたの?」
まず美里が訊いた。
「美里ちゃんのトコに行こうと思ったら、途中で麗ちゃんに会ってね。で、一緒に美里ちゃん家に行ったら、啓祐と運動公園に行ったって聞いたから、来てみたの」
早紀が答えた。それより、このGW三連休中、二日も麗ちゃんに会えるなんて、これはもう運命的なものを感じずにはいられない。
「ランちゃんも来てたんだ。陽一君は、いないの?」
俺と美里がランと一緒にいると思っていなかったのだろう、今度は早紀が訊いた。
「陽ちゃんは風邪。でもいい天気だから啓ちゃんとキャッチボールしてたら、ランちゃんが来たんだよ」
「おう、俺も天気がいいんで……仏が丘ちょっとブラブラしてたら、運動公園があったんで来てみてよ。そしたら啓祐と美里がいたんだ。ところで……お前、確か同じクラスだったよな。名前、何てったっけ?」
ランが麗ちゃんに訊いた。
ランが覚えてなくて無理もない。先ず出席番号は、ランが女子の最初で麗ちゃんが最後から二番目。今は教室の席が出席番号順になっているから、席が遠い。掃除の分担区域も出席番号順で分かれているから、全然違うところだ。麗ちゃんとランの接点が、同じクラスという以外、一つもないのだ。おまけにこっちに引っ越してきたばかりのランと、そのランを怖いといっていた麗ちゃんである。親しくなくて当然といえば当然だ。
「横須賀麗子、です」
静かに麗ちゃんが言った。静かに、と言うよりは少し怯えて、と言った方が的確だろう。
「そっか、麗子か。いやぁ、久しぶりだな、女の友達が出来たのはよぉ」
「そ、そうなんですか?」
まだ少し怯えている様子の麗ちゃんに、ランは少しムッとしながら、
「おいおい、俺たちゃ同い年なんだから、ンな敬語なんか使うなよ。いじめてるみてぇじゃねぇか」
「あ、ごめんなさい……ごめん」
更に麗ちゃんは項垂れてしまった。
「ま、いいや。ホント、俺って女友達が少ねぇんだよな。男友達のが多いんだけどよ。女友達は、美里と早紀くらいだしなぁ。ま、よろしくな、麗子」
「……こちらこそ」
ランが差し出した手を、麗ちゃんがそっと握った。同時に、ランが満足そうに笑う。
確かに、ランの女友達が美里と早紀くらいというなら、男友達の方が多い。俺と陽一、ジョニーですでに多いし、更に柔道部の巨漢・翔もランとは親しい。このランの性格や口調では致し方ない気もするが。
「ところで啓祐ェー……」
突然、早紀が妙にいやらしい笑みを浮かべた。
「何だよ、気持ち悪ィな」
「昨日は、遊園地楽しかった?」
「そりゃぁもう……あ?」
思わず答えてしまったが、後の祭り。いや、早紀が麗ちゃんと出会ってしまった時点で、すでに後の祭りだったようだ。
「えっ、何、遊園地って?」
何も知らない美里がキョトンとして尋ねる。
だが黙っている必要もないと思ったので、俺は、
「いや昨日架橋に行ったら麗ちゃんと逢って……それで、一緒に遊園地に行ったってだけだよ」
正直に話した。麗ちゃんを見ると、少し照れているのか、赤面している。
「あー、ずるーい。パシフィック・スラッシュ乗ったんでしょ!?」
美里が少しむくれた。そう言えば、美里もパシフィック・スラッシュに乗りたがっていたっけ。
「あ、まぁ。それが目的だったし。なぁ、麗ちゃん」
「うん」
麗ちゃんは苦笑しながら答えた。
「何だ、啓祐奥手そうでやることやってんじゃん」
隣でランが腕組みをしたままニッと笑う。
「あのね……変な言い方しねーでよ。大体な別に遊園地に行った以外何もしてねぇぜ」
「啓祐、顔真っ赤にして言うと、あんまり説得力ないわよ。茹で蛸みたい」
早紀が茶々を入れる。お陰で、麗ちゃんを含む全員が大笑い始めてしまった。
「んなっ……あのなっ!」
全く、どうしてくれよう。麗ちゃんまで笑っている。確かに、俺の顔が赤いということは、予想は付いていた。それにしても、茹で蛸と言われるほど赤いだろうか?
みんなが笑っていて、さすがに気恥ずかしくなったその時。
「よぉよぉ、大分盛り上がってんじゃん?」
またしても誰かが来た。ところが、今回は全然見覚えのない三人組。全員、男。しかも、ガラが悪い上に、同い年か年下だろう。ガムまで噛んで、ズボンもわざわざ下げて履いて、いかにもそれっぽい。
「何だ、お前ら?」
昨日の遊園地の帰りよろしく、あんまりいい感じはしない。
「楽しそうだな。お前、帰っていいから俺たちにも楽しませてくれよ」
つまり、ここにいる女子四人を寄こせ、と言っている訳だ。昨日も思ったが、今日もまた感じてしまった。さすが、田舎と。
「……馬鹿じゃねーの?」
言ってみると、目の前の馬鹿共はすぐに挑発に乗り、
「何だと?」
俺を睨んだ。
だが、ここでこの場に麗ちゃんがいるのを思い出した。余り野蛮なところは見せたくない。癪に触るが、やはりここは穏便に済ますべきだ。
だが、すでに時すでに遅し、馬鹿共は拳を鳴らし、今にも殴りかかってきそうな勢いだ。どうしよう?やるしかないのか?
「啓祐、喧嘩は駄目だって言ってるでしょ!」
少し悩んでいる傍らで、早紀が怒鳴った。
「お、おう、分かってんだけどよ……」
と、俺が少しよそ見した隙に、そいつは、
「おい、余所見してんじゃねぇよ」
俺の肩を軽くドついた。
何なんだ……そう思った瞬間。
「やりやがったな、てめぇ!」
目の前のそいつは突然吹っ飛んだ。一瞬の出来事だったが、俺には何が起こったのかが理解できた。
ランが、待ってましたと言わんばかりに、見事な右ストレートをそいつの頬にたたき込んだのだ。
「おめぇらも同罪だッ!」
そう言って、問答無用で他の二人も殴り、更にその二人の髪を掴んで、互いの頭をぶつけた。『ゴツン』といかにも痛そうな音が聞こえる。
「ひっ、ひぃぃ!」
最初に殴られた奴が、口と鼻から血を流して、下品な悲鳴を上げた。
「……啓祐、喧嘩は駄目よ……」
早紀が半分呆れて俺に言うが、
「ああ。ついでに手助けもしない」
俺もランの乱闘を傍観することに決めた。
一方でランは、散々に暴れている。
「てめぇが元凶か、コラぁ!」
「許して、くだグボゥ!?」
許しを乞う途中だろうが、お構いなしに土手っ腹に喧嘩キックを繰り出した。既に馬鹿三人組は逃げることも出来ず、うずくまっている。
「……ん、まぁこんなところで許してやるか」
散々殴り倒してから、ランは掃除でもした後のように手をパンパンと叩いた。
「やりすぎだ、お前は」
「ん、そうか?これで手加減したつもりなんだけどな」
ランが難しい顔をした。こいつの辞書には手加減という言葉はないらしい。
「舞ちゃんて……強いんだね」
唐突にそう言ったのは、思いがけぬ麗ちゃんだった。それは軽蔑の眼差しではなく、むしろ尊敬のそれだった。
しかも、ランのことを『舞ちゃん』と呼んでいる。確かにランの名前は舞だが……改めてそう思うと違和感がある。
「まぁな。特にあんな男なんかには負けねぇぜ」
ランが言うとやたら説得力のある言葉だ。
それにしても麗ちゃんは、ランのことを怖いと言っていたが、ランの喧嘩を見た今ではむしろ逆に好意を抱いている。何だかんだ言って、ランも結局女だし、麗ちゃんと妙な関係にはなりはしないだろうが、納得がいかない。
麗ちゃんは一体、ランの何に怯えていたのだろうか?
いやまさか、麗ちゃんは実はソッチの気があるのでは?
その日を境に、麗ちゃんとランは急に仲良くなった。ちなみにそれは変な関係ではなく、一般のお互いにいい友達という関係だ。
ちなみに麗ちゃんは後にこう語る。
「私が舞ちゃんを怖いって言ったのは、彼女の事件に他を巻き込むんじゃないかってこと。舞ちゃんは、絶対に自分のことは自分でどうにかするタイプだし、それに困っている人を見捨てられるような人でもないよ。凄く正義感のある、いい人だよね。啓祐君の代わりに闘う舞ちゃん、女ながらにカッコ良かったな」
お、俺が喧嘩してた方が良かったのかも……。
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